◉太田菜穂子 私は門外漢というかいけばなも白百合学園でほんのちょっとやっただけなので改めてこのような場を与えていただいても私自身も幸せだと思いましたし改めて本当に1番の世界がもっと知らなければならないアートだと思いました。訳語が正しくないのかいけばなは訳せない言葉なのかとにかくフラワーアレンジメントではないので、そこをまだ払拭していく作業をする上で、これからのいけばなを考える会として大きなミッションを持っているんだなということを感じました。多くの方々が気づいてらっしゃるように、いけばなは時間とか、生きているとか、人生とか根源的な問題を抱えている。それを今回皆さんが言葉にしてくださって素材へのこだわりとか素材への愛情とか、それらを含めた上でその場で作品を作り上げていくことにその時間というものを共有させていただいて大きな感銘を受けました。それだけ、にして。いけばなって世界がもっと知らなければいけない後なのだと思いました。
実は作り上げていくプロセスを拝見したかったので火曜日からこちら伺わせていただいて水、木と拝見いたしました。その時間の中で皆さんが作品を作るということにどんどん集中していくプロセスとか、刺激を受け合っていると言ったら変なんですけど、皆さんが視界に他人の仕事を納めながら自分が何を表現していくのか最後の瞬間まであきらめないと言った姿勢とか、今後はこういったメイキングを捉えて会場内においといくということがすごく重要ではないかと思いました。また綺麗事じゃない真剣勝負っていうのが伝わってくるという貴重なお時間を過ごさせていただけたことを感謝申し上げます。ありがとうございました。(拍手)
◉長井 ありがとうございます。それでは次に三頭谷さん。
◉三頭谷鷹史 僕は個々の出品者の話を聞いて、みんな結構面白いね。もうこのまま帰ろうかと思ったんだけれど、僕は愛知県の犬山というところからわざわざ朝早い時から出てきてまあ、何かしゃべっていこうかなと思います。えーといけばなの過去と将来向けてちょっと言いたいことがあったのは、一つは、えー個人名挙げます。工藤さんが出品の時のコメントを書いたのを僕の解釈をすると現代いけばなっぽい流れの中で、植物を使った昔のままの昔のいけばなの方へ向かっていくのはちょっと抵抗があると言うようなことでよかったですかね?もっと反対か?そこにやっぱり問題があると感じられていて、それが気になってそれと粕谷さんが多分最もストレートな形で部分的にはあるけど生の花をいけることを作品の中へ入れてると、もちろん植物を使ってない人よりも使った人もいるわけだけど、最もストレートに使っておると。実はその間にいけばなの大きな問題があらへんかと。二人を煽って議論させようかと思ったりするんですがまあ、それはちょっとやめておきますけども、言いたいことは僕自身これは過去の問題でもありこれからの問題でもあるので、いわばいけばなの急所のようなところでもある。それともう一つは表現という言葉を今回テーマに使っていますがいけばなにおける表現というのはずっと昔からあったわけではありません。ある時期に表現ということを意識して始めた。それまではどちらかというと工芸に近いもの、日本は工芸の国ですね。いけばなの床の間の工芸といいますけど、本当に長い伝統と力を持っています。そういうところからある時期から自立していく。表現が飛び抜けて出てきた時期があるんです。それは当然西洋から影響受けていますが、美術でもおそらく明治の半ば、そのころに表現が自立します。それまで工芸に近い感じで今では美術と言ったら表現だと思い込む位になっていますがいけばなはそうはいかない。やっぱり色々な重しがあった。それが自覚したのがいつかと言うと、草月の方が多いからご存じかもしれないけれど、西川一草亭、京都の文人いけばなの人だけど、勅使河原蒼風が唯一自分が影響を受けたと名言した人かな?
その人が大正12年にこれからは表現が中心になると言うことを予言しています。そこからようやく表現というのが本格的な意味においてのいけばなの中にくっきり出てくる。それまでも含まれていたんだけれど、くっきりはっきり出てくる。ただ、西川一草亭は生活が重要だと、生活の中で芸術というの鑑賞するのは彼自身がそうでした。ただ、将来ということで予言していた。そして昭和8年の新興いけばな宣言という、その時期勅使河原蒼風や重森三玲なんかといいだしてきて本格的になってきたのは戦後です。だから表現としてのいけばなていう表現ていうのは意外と歴史が浅いといえば浅い。はっきりと言えば昭和と平成、この間。
だから僕が言いかけているのはいけばなを表現と言うことでとらえるならばもう一度歴史を振り返ってそれを柔軟に見る必要がある。今までは表現をすごい拡大してきたけど、道はそれだけではない。それを突き詰める事も重要だししかしそれだけではないというところをどうむけていくか?それを若いというか、粕谷さんあなたいくつだ?
◉粕谷尚弘 若くないです。38です。
◉三頭谷 38か、まあ若いよな。そういった若手の方から出てきて、で、何だ、還暦になった人は中々頑固にこだわると、いや、これが歴史の現実で、面白いんじゃないかと僕は思って勝手に言わさせてもらってますが、僕の見方はじゃあだったらその辺の色々の多様化をこれからは引き受けなきゃならない時代じゃないかと、えー今までの造形志向が無意味なものになるという訳じゃないが、多様化に向けてそういったのが解体されていく、要するにみんながそろって同じ前を向いていくという時代じゃなくなっていく、逆にそれぞれの世代が持っているもの、個人が持っているものをはっきりと追求していく。その方が面白くなっていくんじゃないかなと。助言というか、そのような予感というものを持って僕は見ています。
それを意識すると何が違ってくるかというと、自由になれるんですよ。どっか縛られているというかそれは過去の伝統的な縛りもあるが、近代から現代への流れの中で縛られているというところがある。それを現在びくついているというところがあるという。だからこっからまた再スタートするくらいのつもりがないといけないかなと、これは提言です。
もう少しいいですか?僕が美術からいけばなに興味を持ったのが1990年前後なんですけど、現代美術とか造形とは何か違う面白い部分があって関わったんだけど、いけばなという表現が確実にある、と。やっぱり違いがある。そこあたりの所を是非とも追求していただきたいということです。
◉長井理一 ありがとうございます。もう先生方話し出すと止まりませんので、私がブレーキをかける役だったんですけど、ボーッと聞き入ってしまいました。
それでは金澤先生。
◉金澤毅 話は10分でといわれていますのでそこを頭に入れて話をしますがあまり時間がありませんのできちんと整理をした話が出来ません。そこで簡潔な要点だけを話していきましょう。
まず私は二つに分けて、今の美術界がどうなっているのかということをちょっとだけお話ししたいと思います。
今三頭谷さんが美術界から見たいけばなということに入って来ていますが、私も実はそこに関心を持っていますから、少しそれを話していきたいと思います。
ご承知と思いますけれど、今や美術界というのは昔の美術界ではありません。もう完全に意識が変わってしまいましてね、古い方の美術と新しい方の美術と二つの流れが大きく分かれてしまいました。で、古い方ですと、今までのタブロー型とか彫像ですね。あと版画、工芸作品として見ればわかる我々のなじみが深い作品です。ところが数十年前から世界が変わり始めたんですね。それはアートというものは何を以てアートというのかそこで具体的な例を見ていきますとね、今日ではインスタレーションというのが非常に多くなっていていますね。インスタレーションというのは非常に大きな場所をとりますし、その場の空気も含めて大きな表現となっているのであります。ですから場を移したらもうその表現は通用しなくなるのです。しかもその一部分だけとってそれがアートかと言われると、それはそうではないんですね。それは石ころかもしれません。ほうきやちりとりかもしれません。価値がないものでも集まることによってそれは作家の意思になるんですね。まあそれが今流行のインスタレーションとなって時代の表現ともいえるでしょう。つまりすべてのアーティストはどう表現するかに四苦八苦している訳です。その一番いい例が写真家でしょうね。カメラを持ってうろうろしてる写真おじさんというのも一杯いるけれども、中国では今残留孤児の家を一件一件回ってその悲惨な顔を撮っていく方もいました。それが表現科と言われると遊びの延長じゃないかと、つまり美の表現、アートの定義というも何を以てアートというのかわからくなってきたというのが現状なんです。答えの出ない質問ですね。それからパフォーマンスというものがあります。これは肉体表現です。自分の身体を見せていくアートです。身体というのはほとんどの人が同じ素材を持って生まれてきている訳ですけれども、そこから先に展開するという動きは、その人にしか出ないという事になるわけです。それは音楽にのせるということが出来ますけれども、何かの作品と一緒にその周りをウロウロして動作によってひとつの表現をするのもあります。
私が一番驚いたのはかたわになって生まれた女性が自分のかたわを恥ずかしげもなく全部見せてしまう人がいました。今でも元気で30代くらいじゃないかと思いますが、若い女性がよくそこまで不虞の身体を見せるなーと、でも彼女にとっては見せることが表現なんですね。ですから表現に繋がると羞恥心というものがなくなるのかもしれません。まあこの世界は驚きの連続です。まあそこでいけばなに話が入って来ますが、いけばなというのは何処かアートとは違う性格を持っています。それはいけばなそのものが装飾的な性格を持っているということ、それから何かに捧げるといった相手を意識すること。それから型というものがあって原則が一つある訳ですね。それから、見せる場、見せる容れ物、いわゆる道具、設えといったものがある程度決まっていること。そうした条件付けの中で作品を作っていけというと、どうしても手枷足枷ではありませんが限界がある訳ですね。ところがアートの方にはそれがない訳です。そこで私が考えていますのが、いけばなはこの際床の間とかですね家庭から外に出て行くことが必要ではないかと思います。つまり一種の冒険をするということです。アートというのは作品に一人歩きをさせるということがアーティストの宿命でもあります。しかしあるグループの中や規則の中、ある決まった場所で物事を繰り返し発表していきますと、それは安全圏の中での表現となり批判がない訳であります。批判がないところには成長がないわけですね。ここのところが私は美術との大きな違いではないかと。
そういう気がいたします。それから今後の展開でありますけれどもいけばなスケールアップして社会の中へ出ていく必要がある。そのためにはデザイナーとも建築家とも仲良くならなくてはならない。色々な環境の中で発表してくことによってですね、状況の中でいけばなを作っていくというそういう対処の仕方を学んでいく、そういう事も大事なことですね。
いけばなには「活ける」という言葉がありますね。生活の活という字を書く。私はいけばな作家ではありませんですけど、「活ける」という言葉の意味がこの際重要になってくるんじゃないかと思います。それは「活ける」ということは植物が素材である花であるということがひとつありますが、その場の空気を変えていくということも必要でしょう。またその時代の流れを読んでそこに対話の道具としてのいけばなというものがみんなの目に映り込むようにしなくてはならない。つまり、一種の冒険であり実験なんですね。
こういったものをこれからのいけばな作家はどこかへ持って行かなくてはならない。そのためには公募展というものが大変いい訓練の場に役に立つと思います。ここにきて学ぶことも多いでしょうし失敗も身につくことになるでしょうし、何もしないでじっとしてるよりは遙かに成功と失敗の両端を行ったり来たりしながら成長していくきっかけになると思います。それからもうひとつは、いけばなはいけばなだけで固まるんではなくってですね、他のジャンルでの共同作業というものも考えるべきではないかと思います。例えば音楽とか、パフォーマンスとか建築空間とかデザイナーとかそういう人達とですね、社会の中で共存共栄していくきっかけを積極的に作っていかなくてはならない。その為には一つの活動の場として国際的な場も踏まなくてはならない。一番いけないのは日本人のアートは日本人の中だけで完成させましょうという姿勢が一番いけないんですね。いけばなは茶の湯とは違いまして国際的な性格を持っています。いくらでも発展させていくことが出来ます。そして世界の中でもいけばなに近い感覚で花をいけるという行為は何処の国でもあるんですね。しかしそれを論理化して学術研究の対象にもっていったのは日本だけじゃないかと思う。いわゆる家元制度を作ってキチッと論理化したのは日本だけじゃないかと思います。
でも逆にそれをすることによって固まってしまったんですね。
自由な展開が出来なくなってしまった。そこが私は大変残念に感じます。そんな訳で今申し上げた提案の中に入るとは思いますが他のジャンルとの接点を求めること、冒険をすること、国際性を持つこと、こういったことが今後の日本のいけばなに大いに役立つんじゃないかという気がしています。ここでちょうど10分です。(拍手)
◉長井 ありがとうございます。三人の先生から提言を今いただきました。和食とフランス料理を一緒に食べるとえらいことになりますが、専門的なご提案で、身に染みる部分もあるし、えっと思うこともあるように感じる方もいるかもしれない。そんな中で太田先生から前回もご指摘というか方向性を示していただいたんですけど、世界へ出て行くことこそあなたたちのやるべき仕事ではないかと。何百年も続くいけばなが素晴らしいいけばなが自分たちの世界だけで終わったしまってはいけない、もったいないと。世界にアピールしなさいよと。
今の金澤さんからも国際化ですね、どうして外に出さないんだという含みをいただきながら話を聞きました。えーこれから30分という短い時間ですけれども、皆さんからご質問なりご意見なりを、、、。
◉太田 いいですか?私はまだ感想は述べましたが、提言はしていないので…。おそらく皆さん、私のことをご存じないのかと。初めてお目にかかる方は何故いるの?と。私は写真のキュレーターを30年やっていまして、写真という状態の難しさを十分わかってこちらに伺わせていただきました。写真は見ることによって皆さんと共有出来ることがあるんじゃないかと思いもあったのは、写真もお花と同じように一期一会なんです。その時、そこにいないとだめなんです。その時、誰かに見せたいと思わない限り良い写真は生まれないんです。そこで私はいけばなと写真は似ているのかなとこの間、シンポジウムの時に思いました。実はあの私2000年過ぎてから、色々なかたちでいわゆる新日本様式とか美をただ単に日本だよ、美しいよね?というだけではなく、それをどういう風に日本というアイデンティティを乗せて世界の人たちとどういう風にさらに共有していくかという仕事をさせていただいております。その中で私は食文化の仕事をしたり書道の方とご一緒したりする流れの中からいけばなの方々と今回関わったんですけれど、それまで私が理解するいけばなというのはいわゆる応仁の乱が起きて10年間、京都は灰燼に喫します。そのあと利休が現われ大徳寺に庵を作ります。
そこに茶の方、お花の方が来ます。その時代は中国の完全無欠なものが大事だという考えがありました。それが応仁の乱によって中国のものが入ってこなくなって、その時に日本人が考えたのが茶の湯でありいけばななんです。それは価値の創造なんです。マインドリセットと価値をもう一度リニューアルする事だったんです。中国から入ってくるものは完全無欠だったりお金がかかっているもの、これは高いよ、というもの。そういうものじゃないものに、いわゆるへうげものといわれるものに、ゆがんだり曲がったりしているお茶碗に価値があるといって、それに一期一会の時間、それからお花という姿もただ綺麗という飾り物ではないかたちに置き換えた。
価値を変えるという力があるんです。今こそ時代はそういう流れなんです。今、世界は、経済は、色々な意味で行き詰まっています。政治も行き詰まっている、経済も行き詰まっている。でも世界の人たちはSNSも含めて繋がっています。その中で日本人が提言できるものいっぱいあるんですね。今、皆さんのスピーチを聞いてステイトメントを伺いながらも感じたんですけれども、根本的な問題を持っていますよね。今世界中が考えなくてはならないアップサイクルという考え方。リサイクルではなくて廃棄物をさらに価値を上げるという考え方。
これは庭花先生が今回やってらしたものだったり、前回、去年のものも置いておいたという様々な先生方、日向先生もそうですが、一回使っちゃったから捨てるといった廃棄の社会じゃなくなった時に日本はさらにアップサイクルする、良いものに価値を変えていく、といったことをいけばなの人たちは軽々と、飄々とやってしまっている。
だから今はそういった論理をご自分達がきっちりと自覚して世界に見せるということ。今はそういう段階なんです。
アートは常にいわれています。いわゆる問いかけをするんです。答えを与えるのはデザインといわれています。
でも問いかけをするをする以上にそこに価値の変換を生んだんです。
だから、完全無欠なものがいい、お金がかかったものがいい、といわれていた時代にわざわざ古木を使った和室、茶室をその頃のお金持ちの人たち、いわゆる婆娑羅といわれた人たちが古木で作られたぼろぼろの茶室の中でわざわざ中国から高いものを持ち込んでそこでばくちをするんです。
お茶を点てて、で、そのお茶は何だか当てた人にその部屋に並んだものを全部あげるということが室町時代に起こるんです。その人達は本当に明日命があるかどうかわからない応仁の乱といった乱れた気持ちの中で戦い方をお花だとか茶道の中で長けたんですね。そこでそういう風に価値を高めていることに中国人はびっくりするんです。そこから初めて日本の美は生まれていく。
だから佗茶とか侘びだとかは本当に命がけのアクションだったに違いないんですね。少なくとも私はそう読み込んでいて、その本質は今世界が抱えている問題に非常に近いです。アートだとかアートでないとか、工芸だとか工芸でないとか技術とかだけではなくて、本当に新しいやり方で人が繋がり価値をどう提言していくか今問われているし、世界中が日本に期待しているんです。もう数年前から和食というシーンが色々な季節だとか価値観を伝える大きなミッションという力、消えてなくなるものなのにあそこまで一生懸命にやるというそれは高級なものだけではなく非常にありきたりなものを使いながら、それからあと自然界のルールをわかってやっている。だけど旬というのも本当は嘘っぱちなんですね。日本人が言う「旬」というのは。本当は鰻も冬の方が美味しいんです。鱧も冬の方が美味しい。でも敢えて夏にしましょうね、食べなかったんですね。鮎もそうなんです。稚鮎じゃなくもうちょっと大きくした方が美味しいってわかってる。守ったんですね。今そういう考え方がやっとわかってきたんです、世界中の人が。
だから今日ここでお話になったいけばなの方々もやらなくてはならないのがもう一回そういう文脈に合ったかたち、問題を抱えている世界の考え方と同じような気持ちで、じゃあ日本人はリサイクルというのはこういう風にやってるんだよ、そんなに簡単に捨てちゃっていいの?ということも含め、価値を共有していくという意味で、新たな発見があると私は思っている。だからそういう意味合いで是非頭を柔らかくする。だから私が体験させていただいた三日間の中でものすごく参加者達がいい感じになっていくんですね。お互い助け合ったりとか、お互いが刺激し合ったり、お隣のライティングもそう行くのならこっちはこうしましょうとか、ちょっと動かすとお隣も綺麗だしウチも綺麗だとか。あの感覚はありませんね。海外のアート展の展示をしてて。だけどここにはある。だからそれも財産。
だから何を財産とするかは皆さんの方で気がつかなくてはならない。
そういう意味でも皆さんが何気なくやってる作業のひとつひとつの意味合いを、自覚してステイトメントも含めて世界に発信していくことはすごく必要だと思う。
ただ海外に行きましょう、というんじゃだめなんです。技術を見せに行く話じゃないんです。いわゆる価値観の変化、何が起こっているか私たちは知っているよ、という形で話をしていかなくてはならない。そういう意味でもこういったステイトメントを語る時間をもう少しトレーニングしていって、その上で言葉と共に行かなきゃならない。
外国では全て説明責任を問われるんです。聖書でもそうですけれど、はじめに言葉ありきですから、自分で作っているものを言葉で説明できなきゃならないんです。どんなものを使っているのか、どれくらいの時間をかけて作っているのか、そういう付加価値を外国人がわかるルールの中で説明していく。わかるでしょ?ではなくわからせる努力を皆さんがいかにするか。そういうことを今回は念頭に置いて今後の活動をするにあたって皆さん方が抱えているお仕事とか技術とかミッションというものをもう少し一般の人に共有してもらわないと、私のような新参者にはわからないんですね。初めてこういう機会をいただいてこうやって審査にも関わり、皆さん方のお話を伺うことが出来て、時間を一緒に共有しながら会場が出来上がっていく姿を見ながら、やっぱり素晴らしいなと思いました。垣根のなさと柔軟な感覚?それと、焼き餅を焼かない精神。そして、揺るがない。
これでやっていこうと決めたら、卑しい気持ちはそこになく、ちゃんと自分の信念を貫き通す。大塚先生なんかもそういう形で、今回先人達への敬意を表したいと決めたらば、もう揺るがないから観るものにそれが伝わっていく。黒は喪を表わすから、見てなんとなくわかる。でもそれは言葉にされて初めて私たちは受け取ることが出来る。
◉長井 いけばなをする人への提言あり、また、日本人全体への大きな提言であるようにも感じましたけれど、皆さんの中で、お話を伺ってどうでしたでしょうか?お三方それぞれのアドバイスがありましたけれど…いなければ続けさせていただきます。
あ、今手を挙げられた方。
◉出席者 今の話を聞いて、外国人にいけばなのことをわかるように伝えてください、というの、私は反対。日本人が今、いけばなわかっていない。(笑)
外国人の方が今、いけばなにすごく興味を持っていることすごくよくわかる。厚木の駅、昔はいけばなを飾る箱があって、今はない。郵便局、昔は迎え花があって、今は変なぬいぐるみ。で、自分今、日本人になった。
だから市役所行って昔、厚木市は楓、今は何になった?豚?魚?勿体ない。私、すごく怒ってる。40年前と今、全然違う。だから、外国人にじゃなくて、日本人はもっと自分のこと、ものを大事にしてください。
◉長井 日本人はもっと自国の事を知るべきという痛烈なご意見で、でももっともだなと思います。で、もう一人手を挙げた方。
◉出席者 私は第一回の新いけばな主義は残念ながら見ることが出来なかったのですが、で、私はどちらかというとアートの方に身を置く方だと思うのですけど、私は母の無理矢理というか中高といけばなを習いそんな免状を持っているのですが、今色々な先生方の話を聞いていて、私は今非常に皆さんに期待しています。
私自身はインスタレーションをやっているのですけど、アートの方からするとインスタレーションというのは中々それに至っておりません。どちらかというといけばなの方が私はインスタレーションだと思っています。何故かというと、アートの方では孤立したものを作ろうとしています。それは空間の中であろうが何処であろうが、これが私の作品です、というのがまず第一です。どの美術のコンクールにしましても「作品」を出します。それは自分の表現。私はこれだ、という表現。
だからインスタレーションとは関係ありません。先ほど先生が仰っていらしたようにインスタレーションなら作品がなくても、それが石でも、その空間を自分のものに出来るといった可能性がある。だがただし、それはその空間がやはりなくなれば失われるんです。アートの人間は自分の作品が失われるといったことに非常に恐怖を覚えます。
やはり自分の作品が保存され美術館にあることをよしとするからです。だけれども、そこにインスタレーションはありません。もしそれを留めようとするならばアーカイブ、資料として留めるのみです。そのことをいけばなをやっている人たちは自然と身につけてらっしゃる。そのことがとても私は敬服する。そのことだけは一つ言わせていただきたと思います。
◉三頭谷 今の話とても興味深く聴いたんですが、というのは、近現代のいけばなを研究していてで、インスタレーションというところでいうと、まだそういう言葉がなかった頃に半田唄子さんという、中川幸夫さんの奥さんですが、1950年ぐらいに本質的な目で見れば明らかにインスタレーションといえる作品を作ってるんだよね。
ただそれらは実感しながら自分のものとして作られていってるんで、まあ美術の場合はどうしても1970年後半頃の世界の動きの中から学んでいったという形なんだけれど、いけばなの場合はそういうこと関係なく独自に生み出していった。そのあたりの力っていうのは僕あたりの身からすると感心するんだよね。
ただそのことについて議論したのは下田(尚利)さんとなんだけど、下田さんは、三頭谷さんはちょっといけばなに甘すぎるよっていうんだけれど、彼はあれは座敷飾りの延長だよ、という言い方されていて僕とは議論になるんだけれど、いけばなというものが座敷飾りという場所の文化性と密着して育ってきているだけに、それは座敷飾りの延長と見るのか、それを原点として持ちながら新しい表現として飛躍して見ていくのかは全然違ってくるのでまあ僕は好意的に、ある種飛躍してすごい表現ができたのではないかと、僕はいけばなに期待しているところがあると、いうことをお伝えしたかった。以上です。
◉長井 ありがとうございます。何かありますでしょうか?いかがですか?何か感じるところがあったらお話してください。
ありませんか?えー第一回の時に三頭谷先生が激励だと思うんですが、新いけばな主義は台風だ、それもドンドン成長するそういうタイプのものだと言ったんです。で、それは第二回展にこぎ着けたことによって進んだんだと思うんですよね。色々な話の中でこれからのいけばなに向けての提言として自国の文化を意識しつつ世界へ出て行く。ただ、領域の変化というのは確かにあると思うんですよね。座敷飾りだけであった時代、そして百貨店形式が生まれたりあるいはギャラリーだったり、集団で展示していたものが個で展示するようになったり、いけばな界自体も本質が変わってきたり要素が変わってきていく中で、それを個人の個に押しつけるような形でいけばな界で進めていくのがいいのか、それとも団体として「新いけばな主義」としてね、進めていくのがいいのか、そんなコンセプトの戦いみたいな事をちょっと聴きたかったんですけれど、中々皆さんの方から話は出なかったし、なんかありますでしょうかね?
二回展で多分終わらせてはいけないと思うんですよね。でも三回展があるとして、いけばな作家だけが集団で海外に出て行くということは難しいですよ。
表現者がお金がかかってくる問題に対応できない。そうするとそのマネージメント性などを組織の中に入れてこないといけないわけですよ。そういうのいけばな界では中々難しいという現状をずっと抱えて今日に至っている。それを流儀というものがあるんで、その中での解決で済んでいるんですけど、太田先生が言われるように、侘びさびなんかは日本人には簡単にわかるんだけれども、外国の方には中々それを説明しないと理解できない。という提言も前の時にありました。
それを先ほどの方は、いやいや日本人がいけばなを解説してくれなくても、外国の人の方がよっぽどわかっているよと。そのような反論もありました。
そういうような中で金澤先生はアートとして美術としていけばなをどういう風に絡ませていくか、個人として参加しろ、そして団体として参加しろ、アートの色々な分野との接触の中から刺激を見つけていけと、そういうようなことを意見として出てきたと思うんですけど、これを一つにまとめて次から3回目にむけてまとめていくのは中々難しいなと言う感じがしますけれども、みなさん、どうですか?まだ見たばかりだと思うんですけど何か、ただ鑑賞するだけの方もいるとは思うんですけど、もっと刺激的なものを求めてきたんだけど、とかいう人いませんか?
◉金澤 司会が苦労してる…終わらせた方がいい。
◉三頭谷 じゃあ、余計なことを一つ。僕は若い方を擁護する訳だけど、若い方に関してはもっとやりたいことをやりなさいと。中高年は難しい。何十年もやってると自分のスタイルが出来て、そこを飛び抜けていかないとマンネリになっちゃう。キャリアがある人ほどむずかしいが、次の回があるかどうかはわからないけど是非とも脱皮してほしい。
◉金澤 それでは私も皆様方にひとこと言わせていただきますが、「イリュージョンを持て」と。翻訳すれば幻想とか幻影とかになると思いますが、でも身のまわりにない、目にも見えない、具体的にないものをイリュージョンと呼ぶのです。そういう見えないものを見えるようにしていく。あるいは、ひょっとしたらありかなといわせるようものを作っていく。または自分の欲望や夢を形にしていくそういう全てのものをイリュージョンと呼んでいる訳です。そのイリュージョン作りに今後も邁進していってほしいと思うだけです。それだけです。
◉長井 前回、新いけばな主義一回目が出来た時にそのあとで、三頭谷先生から「出来たんだけど現状は変わってないよ」と。「本当はこれからなんだよ」と。で、これからというのがこの二回展だったわけです。
太田先生からは日本だけじゃなく世界へ飛び出していけと、そして金澤先生からは「イリュージョンを持て」と。そこで皆さんに訊きたいのが、第三回展期待するか?と。(拍手)
第三回展に公募があったら参加するか?そういう方、エイエイオー!はい、今手を挙げた方、記録しておいてください。(笑)